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三輪山の謎(トンデモ)

2006/02/05 19:43
三輪山は纒向にあるのにどうして三輪山なんだろう?
という疑問が湧いたので適当に考えてみたいと思います。

三輪山を分解すると三と輪と山である。

三(ミ)を「御」つまり接頭語とするとで大した意味はない。

「巳」つまり「蛇」とするとどうだろう?
三輪山の神大物主は蛇神とされており、なんとなくぴったりくるような気がする。今でも大物主のことを「巳(ミ)ィさん」ともいうらしい。蛇は古来、脱皮することにより死と再生を体現する神である。これは沈んで昇る太陽が神格化されたのと同じ構図である。

つまり死生観という範疇にだけ注目すれば、蛇神と太陽神は同質のものとなるのではなかろうか?

神話において、死んでから再生するので最も有名なのは何を隠そう大国主である。兄神とされる八十神の迫害をうけ死んでしまうが、母神の献身により再び生を受けている。

またその御子神とされるアジスキタカヒコネノミコトと娘婿神とされるアメノワカヒコの登場する「アジスキ神話」も死と再生を暗示していると言われている。弔問に訪れたアジスキを死んだはずのアメノワカヒコと見間違うという神話である。

これら再生神話は国津神の特権でもある。再生するという事は一度は死ぬということでもある。高天原で生きつづけ、また一端死ぬと蘇ることのできない天津神にはない要素であり、国津神の神話こそ死生を伴う原初信仰の神話化であろう。

話がそれたが、私は三輪山の三を死と再生を表す巳、つまり太陽と解読したい。

さて、三の次ぎは「輪」である。
これは、古代日本を表す「倭」のことではないだろうか?

卑弥呼という女王は、邪馬台国という国の代表者である以上に「倭」の代表者・倭王として魏の国は意識している。そして卑弥呼側もその事をアジアの大国魏に保証してもらおうという意思があっての魏への朝貢であろう。つまりは卑弥呼の時代には日本列島に「倭」という意識が存在していたことの裏返しなのではなかろうか?

そして、自分を指す吾であり、我である。蛇神(太陽神)を信仰する我々、倭国の民という意味が三輪のワには含まれているような気がします。

「大和盆地ひいては倭国で最も神聖な山は我々の信仰する蛇神(太陽神=農耕神ではなく生死を司る神としての太陽神)が坐します山である。」

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銅鐸の謎

2006/02/04 13:12
迷探偵「波子伊太郎シリーズその1銅鐸の謎」
登場人物

自称名探偵・波子伊太郎
(自分を天才だと思っている。早とちりで誇大妄想癖がある。30歳。嫁さん募集中)

探偵助手・堂田九雄
(押しが弱い歴史オタク。大学を出たものの折りからの不況のため就職できず探偵事務所で住み込みバイト中。22歳独身)

晴れた正月2日の朝、波子探偵が徹夜の張込が終わって事務所に戻ってくると探偵助手の堂田九雄は、銅鐸発見のテレビニュースを見ていた。

波子伊太郎「あーっ寒かったよ。」

堂田九雄「それは寒かったでしょうお疲れ様でした。浮気の現場の写真撮れましたか?」

波子伊太郎「うん。撮れたよ。正月早々ホテルから腕組んで出てきたとこばっちり。女は晴れ着なんか着てやがったよ。カモフラージュなのか羽子板まで二人して持ってた。しかしホテルに羽子板だよ??馬鹿だね。ホント。でもこっちは気づかれなかったし、成功だな。しかし来る日も来る日もこんな仕事ばかり。土曜ワイド劇場のオープニングを見ただけで犯人がわかってしまうくらいの私の天才的推理力が日の目を見る日は何時になったらやってくるのだろうか?」

堂田「それって、僕にもわかりますよ!!あっそうだ波子先生、今テレビでやってたんですけどね。銅鐸って何に使われたんでしょうかね?謎ですよね」

波子伊太郎「銅鐸って、博物館とかにおいてあるやつかい?」

堂田「そうです。山の中に道路通したり、工業団地を造成したりしようとしたらたまに出土して工事関係者を困らせるアレです。弥生の人が埋めたんじゃないかって言われてます。何に使われたのかと、また何で埋めたのかっていう謎があります。学者も困ってるようです。」

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「伝ー05.「島生み・国生み神話?」、その1。<国土生成>」について

2006/02/04 00:02
伝ー05.「島生み・国生み神話?」、その1。<国土生成>」について
ついに国生みに突入ですね(^^ゞ
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天海と大国主

2006/02/03 22:07
比叡山にある山王一実神道の総本社は「日吉大社」、古くは「日枝山王社」という神社で、西本宮、東本宮が一対という形で建っています。ここに祭られている神はオオナムチつまり大国主です。しかし、ここの神は三輪山から勧請されたということですので三輪の大物主が実際の主祭神です。古事記によると、比叡山にはもともとオオヤマクイノカミが祭られておりこの神は東本宮、オオナムチは西本宮にと別れています。ここでもオオナムチ=大物主としての大国主は西という方角、つまり根の国・黄泉の国と結び付けられて考えられていたということが偲ばれます。

日枝山王社と山王一実神道の基本自体は、鎌倉期に既に成立しており、足利将軍や信長を苦しめた比叡山の僧兵が強訴のとき担いだのがこの神社の神輿なのです。

信長の比叡山焼き討ちにより一旦壊滅した日枝山王社を建てなおしたのは豊臣秀吉と徳川家康であり、失われたり散逸したりしていた山王一実神道の教義・儀式をあらためて体系的に作り直したのが家康の下で活躍した天海僧正だったのです。 天海僧正は、日枝山王社だけでなく関東の地で大国主を祭った神社のひとつである神田明神社も復興しています。神田神社といえばお祭りと「平将門の首塚」があることで有名です。

神田神社は、大和の國魂・大物主と同様に江戸の総鎮守として、江戸幕府の安泰を祈願する性格をもつ神社です。

大国主を祭る日枝、神田の両神社のお祭は大変賑やかなので有名です。これは両神社への民の信仰心を集めるという天海や神社側の戦略でもあるのではないかと思います。喩え神社の呪術的要素が忘れ去られようと民衆の信仰が厚ければ信仰施設として永続できるわけです。

大国主が怨霊であるとする傍証になるかもしれませんが、ちょっとまってください。

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出雲大社の神座の向き

2006/02/03 09:21
大国主怨霊説の四柏手以外の根拠に神座が参拝者へ向かって正面を向かず横を向いている(つまり西向きである)」というのがあります。出雲大社本殿に祭られている大国主命は参拝者側から見ると横を向いた格好になり、参拝者の正面には「客座五神」が正面(参拝者の方)を向いて鎮座しているのです。

ただし大国主のいるさらに奥の方に五神の神座は正面を向きならんでいます。
大国主の正面奥側に大国主に向かって横(つまり参拝者側・南)を向いて並んでいるのです。
向かって左から

天之御中主神

高御産巣立日神

神産巣立日神

宇麻志阿斯訶備比古遅神

天之常立神

の五神です。

この神座の配置から「客座五神」こそが参拝をうける対象であると考え、大国主は、いわば「囚われの神」であるとして、怨霊説に広げていくのですが、これもどうかと思います。

客座五神とは何なのか?と考えるとこれは面白いことに古事記において神々の一番最初に登場する「別天神」と同一なのが判ります。「別天神」とは何もないところから現れ出でる神で、森羅万象全ての元でもあるのです。

大国主や素戔嗚、天照、月読などの人格神ではなく「世界と人間、神の根本」を象徴している神のことです。これらの神名は古事記では天孫の祖先神としてえがかれる一方(タカミムスビ)、出雲の祖先神(カミムスビ)としても現われています。

他の三柱の神は天神地祇とそれを結ぶ柱を表しているとも考えられています。

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出雲四(死)柏手

2006/02/02 22:18
出雲大社参拝の時には、四柏手を打ちます。この「四」が「死」に通じるとして、出雲大社は「大国主という怨霊を封じ込める為の神社」であるという説があります。これは本当でしょうか?まず、「四」の読み方としては古代は「し」ではなく「よ」または「よん」です。古代においての読み方の上からは「死」はありえないという事です。そもそも「よん」「よ」は古代日本において聖なる数なのです。人や神の魂には四つの種類があると考えられていました。「和魂・荒魂・奇魂・幸魂」です。この四つの魂それぞれに柏手を打つのが四柏手の原型だと思います。出雲以外でも、宇佐八幡宮・伊勢神宮・弥彦神社などでも現在も行われている事から推定すれば、四柏手こそが古代における正式な神に対する儀礼なのではないでしょうか?


では何故一般的には四柏手でなく二回の柏手なのか?という疑問があります。古代確かに四回だった柏手が二回になったのは江戸期の国学それに準ずる神学の理論によるものではないかと推測しています。それは、古代確かに四つであると考えられていた人や神の「魂」は「魂」「魄」二つであると理解しなおされたからではないでしょうか?


古代神道における「和魂・荒魂・奇魂・幸魂」の四つの概念を、江戸神学は「魂・魄」二つの概念に改めたのではないでしょうか?

こういった霊に対する概念の変化も手伝って本来四回打つはずの柏手は二回に簡略化されることになったのかもしれません。

そして、明治初年、国学によって理論づけされた明治政府は「神社祭式」を発布します。「神社祭式」はそれぞれ独立した教義やご利益、縁起由緒をもっていた神社神道を国家神道へと変換するのが目的でした。


「伊勢神宮を頂点とする国家神道」の概念を、そしてそれに準じた祭式を新たに作り上げたのです。この「神社祭式」によって伊勢神宮以外の神社での参拝の作法として「二柏手」が正式なものとして定められたのです。


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播磨風土記について

2006/02/02 19:28
宍粟郡一宮町を中心に、伊和大神はますます勢力を広げていった。主として揖保川の流域に地名説話が残されているので、川の道にそって勢力の移動、拡張が行われたと考えてもいいだろう。 さて、今回は少し話しが逸れるが伊和大神の時代からちょっと遡ってみようと思う。

なぜかというと、播磨国風土記にはもう一柱、出雲の大国主と同一神と考えられている神が登場するからである。

まず「オオナムチとホアカリの子捨て神話」なるものを紹介させていただこう。


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【大国主といえば出雲を思い浮かべるが、播磨の国にも大国主の物語は残されている。

オオナムチ(大国主)は子神の「火明命」とともに船に乗って播磨灘にやってきた。

積荷は稲穂や琴、箱、櫛箱、箕、甕、兜、蚕、錨、鹿、葛の綱、犬などである。

船は八丈岩山という山に辿りついた。

オオナムチ(大国主)は、火明命に山の清水を汲んでくるように命じる。

火明命が山に昇って涌き水を組んで戻ってくると、オオナムチの船はもうそこにはいなかったた。

普段から性格が乱暴でオオナムチの言う事を聞かない火明命は八丈岩山に捨てられたのだった。

捨てられたことに気がついた火明命は怒り狂い、暴風雨を巻き起こした。オオナムチの船は、暴風雨に飲まれあっという間に難破してしまった。

難破した船や、積荷が全て播磨平野に点在する丘になったと伝えられている。

例えば、船は船丘、稲穂は稲牟礼丘(稲岡山)、琴は琴が丘、蚕は日女道丘といった具合の地名説話になっている。】


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ここに登場する「オオナムチ」について少し考察してみよう。播磨風土記のオオナムチは子捨て神話以外にもスクナヒコナと対になって現れる。オオナムチスクナヒコナといえば出雲でもタッグを組み国造りを行った神である。私は伊和大神よりもこの神の方が古い時代の神だと思っている。

つまりオオナムチと伊和大神は別人であるということだ。 おそらく、オオナムチこそ出雲の大国主であり、伊和大神はその一族にあたる神なのであろう。 オオナムチは、まずホアカリとともに船で出雲からやってくる。このあたりは、山を越えて播磨入りした伊和大神よりも、海洋航海を主として日本列島各地に交易地と勢力を築いていったであろう大国主の姿を彷彿とさせるではないか?(参照「出雲から世界へ」)

ホアカリを大倭大物主のモデルの一人ではないだろうか?と考えると、その理由が見えてくる。

スクナヒコナの亡きあと、出雲に船に乗ってやってきた大物主(大国主の幸魂ともいう)は出雲大国主にたいして「我を三輪山に祀れ」ということを条件にスクナヒコナにかわって大国主の国造りを手伝うこととなる。この話は、古墳時代の始まる前に出雲から畿内、三輪山周辺へとの勢力の移動があったことを示唆しているように思う。おそらく出雲の海岸から西の列島の沿岸を巡り、瀬戸内にはいり播磨灘をとおって河内に入ったのであろう。瀬戸内という穏やかなこのコースが最も安全でかつ大量の移住が可能なルートのように思う。このルートの始発点はおそらく宍道湖の周辺の港であろう。

そして出雲からの航海の終着点は河内の池上曽根遺跡の周辺ではないかと思う。 ここで注意したいのは、大和へと移動したのは出雲の勢力だけではないということだ。

「神武東遷神話」が指し示すように九州や吉備地方からも流入している。記紀神話を代表とする様々な神話を総合すれば出雲を出身地とする勢力がまず最初に大和入りしたのでは?と私は思っている。 銅鐸祭祀圏の移動と拡散がそれを匂わせている。

ホアカリ≒大物主だからこそ、オオナムチ≒大国主と同じ船に乗れてしかも喧嘩別れすることができたのだ。つまり大国主と大物主も別人(といってもここでは親子関係であるが)なのである。いずれにせよこの喧嘩でホアカリは畿内に、オオナムチは中国にと分かれることになったのではないだろうか?

このような西日本各地の動きは弥生後期の倭国大乱の前段階ではなかったか? 大国主の御子ホアカリに率いられた銅鐸祭祀の出雲人入植者たちは、奈良盆地の三輪山周辺に居を構えた。九州や出雲に遅れをとっていた奈良盆地にも弥生時代がやってきたのである。

ヤマト地方の古代最初の王権は出雲や九州、吉備の連合という形でスタートしたのではないだろうか? 何故大和に新都ができたのだろう?

それは「新しいクニ」の成立に邪魔となるような勢力がいなかった。というのは先住の有力な勢力があるところを連合勢力の中央とするには権益の面で問題が生じるのではないだろうか?と私は思うからである。九州に都を立てれば九州在地の勢力がどうしても優位になる。そういうことを避け、新しい勢力を形作るために大和の唐古や河内の池上ではなく磯城纒向という土地が選択されたのではないだろうか?

そして、西日本一帯を統一された瀬戸内経済圏として見ると、その商売相手となる東国にも近いという東西交流の拠点になりうる地域であったからではないだろうか?しかも大和は盆地であり守るには易い。このような諸条件が大和に新都を建設させることになったのではないだろうか?

さて、本題の播磨のオオナムチの話にもどろう。


続きは下記

http://www.cam.hi-ho.ne.jp/sakura-komichi/kodaishi/hfudoki1.shtml
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